心は理である、その一

心は理である、その一。 陽明学と神道は、よく似ているという話を聞き、勉強を始めてみる。

まず最初に出てきたのは、「心は理である」と言う言葉。心と言う捉え方にとても興味を覚えた、私の好きな祝詞の中に、六根清浄大祓いという祝詞がある。この六根清浄大祓いの中に、「心」の概念が出てくるからである。「心」は2つ意味があり、「心(こころ)」と「意(こころ)」である。

ここの陽明学=心学でいう、「心」は、心、魂、と言う、ところの「心」である。

「心は即ち理である。この世に心外の事や、心外の理がどうしてあろう。この心に私欲という蔽(おお)いがなければ、心は天理そのものであり、外部から何も加えるものはない。この天理と一体となる純粋の心を以て父に仕えれば、それが孝行である。この心で君主に仕えれば、それが忠義である。その心で友に交われば、それが信義である。この心で民を治めれば、それが仁愛である。ただこの心の私欲を去って天理と一体となるように努めればよい」

親や君主や友や民が求めるからするのではない。孝も忠も信も仁も、自分の心がそうしたいという願いがあり、行う心の誠である。

すべてわが心にある。わが心に行うべき正しい道がある。これを道理という。

「理」とはその道理のこと。自分が当然為すべき人としての道です。

あらゆる道理は自分の心にある。

喜怒哀楽も何もかも理は己の心にある。

これが「心は即ち理である」という意味です。

この道理の通った、心の誠を強くするために、「祓い」があるのでは、と思うのである。   上に書いてある、私利私欲が心を蔽い、誠が蔽われる。 その蔽われたものを祓い清める。

天、神から頂いた自分の心には、すでに道理という、「理」が備わっており、その理、    行うべき正しい道は、すべて自分自身の心が知っている。その心を強くだせるように、    日々の祓いが、禊や清めことがあるのだと思う。