心は理である、その二

昨日に続き、陽明学=心学の勉強を続ける。心は理である、その二。

「心はすなわち性(心の本体)である。性はすなわち理である。ゆえに心は即ち理である。これを縮めて『心即理』である。心にはすべての理、すなわち道理が備わっている。

ここでいう、性は、男女の性ではなく、天から与えられた本質が「性」であるという意味です。四書五経の中の『中庸』には「天の命ずる、これを性という」と冒頭に出てきます。

天の命ずるの「命(めい)」とは、

万物を生成化育する働きは、相対的でなく絶対的です。その絶対的働きを指して命といいます。それゆえ天の命ずるとは、天の絶対的作用、絶対的働きであり、それがすなわち「性」である。

たとえば、人は何のために生まれたとしたら、それは、『生まれるべくして生まれた』      という絶対性を表しているのが、天の命です。

人間に至っては、「心」という精神的心霊的世界が開かれた。

その本は人間も万物も、同じ創造の根源である太虚(たいきょ)に行きつく。

すなわち本を一(いつ)にする。

「人間は、生まれるべくして生まれた」と言う天命において、私は、同意見を持っています。それこそ、赤ちゃんが、自分の両親を自分で見つけて、あの両親の元に自分は生まれ、そしてこのような人生を歩むのだと神に誓いを立てこの世に生まれて来たと考えています。

その自分の人生には、必ず自分で立てた誓い、使命があり。それを探す、生まれる前に立てておきながら、母親の産道を通る時に忘れてしまうのです。忘れてしまった自分の誓い、、使命に巡り合い、進んでいけるように、日々、神に向かい、神棚の鏡に向かい、つまり、自分にむかい、自分の中の心、理に問いながら、正しい道を探し、成就していくのが人生だと思います。